平和という言葉を使わず 平和を考える

今日の私のクラスのお便りの話

今日は「うちらわしら平和がすきじゃけん」というタイトルで

「岩波少年文庫発刊に際して」というものを載せました。

岩波書店が1950年12月25日 戦争が終わって

5年したときに「こどもたちに素晴らしい文学を」と発刊した

児童文学のシリーズの巻末に掲載された

発刊の辞です。

現在は 2000年の50周年を機に書き換えられた

新しい文が掲載されているので、古いものはいまは掲載されていません。

でも、私はこの文章が大好きです。

一物も残さず焼きはらわれた街に、草が萌え出し、いためつけられた街路樹からも、若々しい使が空に向かって伸びていった。戦後、いたるところに見た草木の、あのめざましい姿は、私たちに、いま何を大切にし、何に期待すべきかを教える。未會有の崩壊を経て、まだ立ちなおらない今日の日本に、少年期を過ごしっつある人々こそ、私たちの社会にとって、正にあのみずタずしい草の葉であり、若さしい枝なのである。

 この文庫は、日本のこの新しい崩芽に対する深い期待から生まれた。この萌芽に明るい陽光をさし入れ、豊かな水分を培うことが、この文庫の目的である。幸いに世界文学の宝庫には、少年たちへの温い愛情をモティーフとして生まれ、歳月を経てその価値を減ぜず、国境を越えて人に訴える、すぐれた作品が数多く収められ、また名だたる巨匠の作品で、少年たちにも理解し得る一面を備えたものも、けっして乏しくはない。私たちは、この宝庫をさぐって、かかる名作を逐次、美しい日本語に移して、彼らに贈りたいと思う。

 もとより海外児童文学の名作の、わが国における紹介は、 グリム、 アンデルセンの作品をはしめとして、すでにおびただしい数にのぼっている。しかも、少数の例外的な出阪者、翻訳者の良心的な試入を除けば、およそ出版部門のなかで、この部門ほど社撰な翻訳が看過され、ほしいままの改刪が横行している部門はない。私たちがこの文庫の発足を決心したのも、一つには、多年にわたるこの弊害を除き、名作にふさわしい定訳を、日本に作ることの必要を痛感したからである。翻訳は、あくまで原作の真の姿を伝えることを期すると共に、訳文は平明、どとまでも少年諸君に親しみ深いものとするつもりである。

 この試みが成功するためには、粗悪な読書の害が、粗悪な間食の害に劣らないことを知る、世の心ある両親と真華な教育者との、広汎な御支持を得なければならない。私たちは、その要望にそうため、内容にも装釘にもできる限りの努力を注ぐと共に、価格も事情の許す限り低廉にしてゆく方針である。私たちの努力が、多少とも所期の成果をあげ、この文庫が都市はもちろん、農村の隅々にまで普及する日が来るならば、それは、ただ私たちだけの暮びではないであろう。一九五〇年


私はこどものとき、この文章が大好きでした。

小学生には 書いてあるものの何十分の一も分かりませんでしたが

大人の本気 こどもたちを大事にしよう という気持ちと

良いモノ~芸術や文学は、平和だから伝えられる~という

喜びがあふれている文章だから

これが好きになったんだなと思います。

いま、読んでも、同じ気持ちが沸き起こります。


平和を考えるということは、

戦争を憎むだけでは 弱いと思うのです。

いま、ある、私たちが大好きなもの

大切なことを 本当に大事にすること。

それが一番強いバックボーンになるのではないか と思います。

例えば、こどもたちが大好きな シューベルト作曲

「美しき水車小屋の乙女」の1曲目「たび」。

**

旅に出るのはいいな 旅に出るのはいいな

旅をしないなんて一人前の粉屋じゃない

旅はいいぞ 旅はいいぞ


川の気持ちもおなじだろ

川の気持ちもおなじだろ

休まず走りながら 旅の夢見てる

川の気持ちも 川の気持ちも

**

こんな風に自分たちの日常を実感しながら歌う。

平和とか愛とか友情とか

そんな言葉が入って無くても

こどもたちは、歌いながら「いまここで歌える平和」を

「いま歌っている曲の世界の平和」を実感するのです。


平和をこどもたちと考えるとき

そんなことを 本当に大事にしています。

そして、

この「岩波少年文庫発刊に際して」を書いた

当時の編集部のみなさんの気持ちを

しっかり受け取りながら

こどもたちに 今日も絵本を読んでいます。

ちなみに、今日読んだのは

佐々木マキさんの『へろへろおじさん』という作品でした。


ひだまり保育園*安藝里山保育

広島市の東の端っこ 矢野 にある 認可外私立保育園です。 民家を利用して、 40人程度の小集団で暮らしています。

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